ラッセルの対談で、以下のコメントがある。

They were drawing treacle from the well, and the dor-
mouse explains: "Well, we were just learning to draw; we didn't draw
very well." And suddenly they're talking about drawing pictures-
drawing pictures of things the names of which begin with the letter M.
"Why with the letter M?" "Why not?"

三人姉妹は井戸から蜂蜜を汲み上げていたので、眠りネズミは解説するんです、
「さぁ、私たちはちょうど素描画を描くのを勉強しているところだけど、そんなに上手には
描けないのよ。」そこで、突然、素描画を描くこをと話しているのですが、全てMの文字で
始まる名前のものを描くのを話しているのですね。「なぜMの文字なの。」「なぜ駄目なん
だい。」

ここで、井戸とあるが、ビンジーの井戸がモデルになっている。
問題は、drawing pictures。
字義通りには、「素描画を描く」なのだが、learning to draw picturesとは
自然な日本語としては「お絵かきを御習う」ないしは「お絵かきの勉強をする」だ。

しかし、「絵を描く」はpainting picturesであり、あくまでdrawing picturesと
対照的にあるのである。

そこで、ふと手にしたのは、Lewis Carroll: An Illustrated Biography

Derek Hudson[New American Library, 1977]が
書いたもの。
これにdrawing abilityというのが索引にあり、4頁ほどヒットしている。

御存じのように、ジョージ・マクドナルドの家の子供たちがキャロルの自筆の
『地下の国のアリス』を読んで、本になったら!と言ったところから、更に話を
加えて『不思議の国のアリス』にした。

キャロルは自分の挿し絵を使うことを考えていたとも言われるが、ラスキンに
辞めるように言われたとされている。キャロル自身、実は挿し絵画家を目指して
いたところがあるとハドソンは言う。
この場合の挿し絵画家はあくまでdrawingのほう。

結局、挿し絵の技能drawing abilityを認められなかったので、
写真を撮るようになったというのだ。

Edward Learは画家painterだった。
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現在ではノンセンスのリメリック[滑稽な5行詩]とその挿し絵で有名なリアだが、
色付きの絵も生活のために描いていた。

御存じのように、リアのノンセンスの詩の挿し絵は皆drawing。
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色付きのものは、後から配色されているもの。
私たちの眼から見ると、キャロルのdrawingも悪くない、
むしろLearのものよりいいとも思うのだが、ハドソンはキャロルはリアより
drawingの技能がなかったと書いている。
これには異論もあると思われるが、脇に置いておかせて頂くことに。

ハドソンは、アリス・リデルがラスキンにdrawingを習っていたことを挙げている。
手始めに下絵、正確に描くということで素描させるdrawingがある。

また、水彩画はあっても、油絵はヴィクトリア時代の女性にとってunfeminineな
女らしくないものとしてあっただ。
例えば、エリザベス・シダルはダンテ・ガブリエル・ロゼッティのモデル、妻だったが、
シダルのdrawingが現在でも残っている。
油絵でないとまとまったお金にまずならなかった。
でも、才能は感じられるものを残しているシダル。

ヴィクトリア時代でも女性画家paintersはいたが、男性の画家の数に比べ、僅か。

ベアトリックス・ポッタ-Beatrix PotterはPeter Rabbitの一連の物語の作者。
あの絵とお話は、Potterが家庭教師の子供たちのために手紙で描いたり書いたり
したものだが、元々は色は付いてはいなかった。絵本にするときに配色された。
Potterは絵心のある女性で、本当は絵描きになりたかったようだ。
茸を描いたものがあり、機会があったら、新しい茸の発見者になっていたという。
これは、絵描きとして確立していたら、新種発見者として認められていたということである。

そこで、drawingとpaintingというのは単なるジャンルではなく、
イデオロギーが絡んでいるようだ。彫刻になると、更に絡んでいるのかもしれない。

日本語で「お絵描きを習う」という表現があるが、
これはdrawing picturesだけでなく painting picturesをも
含めており、むしろ後者に力点があるイメージがある。

日本の「絵手紙」。
画手紙、素描画でも「絵手紙」になるのではないだろうか?!
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-07 11:22 | 翻訳

ラッセル家 i

財産が築かれても三代目で使いきってしまったり、
税金で持っていかれてしまいしまうとも言われる。
また、ヴィクトリア時代における英国の家運の
移り行きを調べたものがあったが、それによると
矢張り、3代という周期で上下していた。要するに、
元に戻ってしまっていた。

■ 4代目べッドフォード公爵

ラッセル家の場合はというと、4代目のベッドフォード公爵は
翳りを見せるどころか、土地を売買し、イギリスで一番金持ちの
貴族と広く認められていた。これは、18世紀の英国政治が
ホイッグ党の圧倒的な地位を占めていたことにあった。
先ず、ホイッグ党の政治自体が寡頭政治であり、4代目
ベッドフォード公爵の影響を無視することは出来ない相談
だった。国務大臣、アイルランド総督、枢密院議長、
フランス特別大使などを任命された。これは表面的な役職。
本領は自らの党派にある下院議員たちを抱えることにより、
彼らが自分の利益と権益のために働いてくれるようにした
ことだった。

英国の歴史と自らの祖先に自負と関心を絶やすことが
なかったバートランド・ラッセルだが、この4代目の祖先、
また初代の祖先にも、家族の歴史をまとめた著書では
殆ど触れていない。祖先として一番に挙げられているのは、
祖父のジョン・ラッセル郷である。

■ 祖父ジョン・ラッセル郷

ジョン・ラッセル郷は祖先の誰よりも志も高く、公共心に溢れ
ていた。第6代ベッドフォード公爵の二男として生まれたラッセル
の祖父は、我田引水的な政治とは無縁だった。長男が遺産を
継ぐのが慣習だったので、政治の世界に入ったが、
ラッセルの祖父は確固として政治原理と理念に則(のっと)って
進んだ。御存知のように、祖父の政治家としての活躍は、1832年に
最初の選挙法を改正し新興都市住民にも選挙権が与えられることに
なったこと、ヴィクトリア女王治世下で二度に渡り首相を務めたことに
窺われる。

ラッセルの祖父はホイッグ党の歴史をも著わしてもいるが、
党の成長と発展は議会制度の歴史と発展、そしてラッセル家の
歴史が絡むものであった。祖父のもとで、ラッセル家の歴史は
富を蓄積し政治的影響力を得るというものではなく、
「市民の自由と宗教の自由」を擁護すること、王権から譲られた力と
いうイメージは薄れ、王権へ対抗するイメージが強くなったのだった。

この政治家のイメージは18世紀後半にホイッグ党で活躍した
チャールズ・ジェームズ・フォックス(1749-1806)に象徴されていた。
フォックスはフランス革命を恐れ、民主主義への不信感を
表わす同じくホイッグ党のエドマンド・バーク(1729-97)に対立していた。
フォックスが亡くなる19世紀初頭には、少数派だが、選挙法改正と
個人の自由の拡大とは人気を集めるようになっていた。ラッセル家の
人々は、チャールズ・ジェームズ・フォックスを支持することを
誇りにしていた。

フォックスの甥ホーランド郷は、フォックス亡き後、ホイッグ党の中心に
いたが、祖父のジョン・ラッセル郷と懇意だった。祖父の活躍に対し、
祖父に年金を与えたほどだった。祖父が亡くなると、ラッセル家は
財布の紐を締めなければならなくなったが。
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-06 08:55 | 読書

「じゃがいもエルフ」

「じゃがいもエルフ」, 貝澤哉(かいざわはじめ)訳、
『ウラジーミル・ナボコフ短編全集』、作品社、2000年。

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この本も「じゃがいも」で検索したところ、引っかかった
一冊。

英語では、"The Potato Elf"だが、元々はロシア語で
書かれた。ロシア語タイトルは「カルトーフェリヌイ・エリフ」。

シャーロット・ブロンテの『ヴィレット』には、じゃがいもと
林檎が登場していた。じゃがいもがりんごへの変容する
のを絡めつつ、主人公ルーシーが立ち直り、再び日常性へと
戻るというものだった。

シャーロット・ブロンテにあっては、じゃがいものイメージは、
無論じゃがいもから変容するりんごのイメージも
大きなショックを与えるものとはなってはいない。

ナボコフのこの短編にもじゃがいもとりんごが登場するのだが、
かなりの変化球となっているようだ。

タイトルの「じゃがいもエルフ」の本名は、
フレデリック・ドブソン。
じゃがいもエルフは綽名にしてサーカスの舞台に立つときの芸名。

芸名の由来は、団子鼻を見て、「エルフ」、「小人」という
「概念におかしな綽名をつけて重みを出してやるのがいいと
思った」ところから来た。
nez en pomme de terre じゃがいもの鼻=団子鼻だった。

主な舞台はロンドン。
じゃがいもエルフは20歳。

或るとき、出番も終わり、、舞台裏を歩いていると、
軽業師の姉妹ジータとアラベラの部屋から明かりが漏れていた。

二人の姉妹はエルフをくすぐったり抱きしめた。
エルフは「情欲ですっかり真っ赤になってにらみ返そうとしたが、
腕を剥きだしにしたいじめっ子たちに抱きつかれてボールの
ように転げまわった。・・・フレッドは気が変になって、・・・・
[アラベラの]首にしがみついて手足をばたばたさせはじめた。
それを突き放そうとして・・・・毛を剃られた脇の下へと猛烈な
勢いで滑り込み、ちくちくするその熱い谷間にぴたりと吸いついた。」
ジータはエルフの足をつかんで引き剥がそうとしたものの、
笑いすぎて力が入らない。そこへ、空中ブランコで姉妹と組んで
いる男が入ってきたかと思うと、エルフの襟首を摑んだかと思うと、
部屋から放り出した。

フレッドは、その夜、相棒のショックの家に泊まった。
ノーラ・ショック夫人は傷ついたフレッドを介抱してくれ、
食事や飲み物に気を遣ってくれた。

翌朝、ノーラはフレッドの髪をやさしく撫でた。
最初、フレッドは凍り付いていたのだが、「黙ったまま
熱にうかされたように素早く舌なめずりをしはじめ」たかと思うと、
「突然すべては、なにやらばかげた、酔いしれたような勢いで
動き出したのだった。」

フレッドは幸福な気分で外に出る。
「自由や誇りや幸福にあふれんばかりの感覚はまだ彼に
つきまとって離れなかった」が、お腹が空いたので、行きつけの
食堂に入る。

そこに、ショックを見つけ、驚くフレッド。
ショックにノーラを好きだと告白するフレッド。
ショックは新しい興行師とアメリカにわたると告げる。
ショックが食事もせずに立ち去ろうとするとき、
「フレッドは不機嫌そうに黙り込んで、焼きりんごを食べていた。」

ショックが帰宅。
秘密を握っているので夫より一役上だと思っていたノーラ。
手品師の夫は自分を騙してばかりいた。「私にだって人を
だますことくらいできるのよ」と豪語する。

倒れる手品師の夫。
医師に電話するノーラ。
動転する妻を尻目に、「手品師は晴れやかな顔をして、白い
チョッキと、・・・・姿見の前に立ち、・・・ネクタイを結んでいた。」

フレッドは北イングランドの小さな町(=ヴィレット)ドラウズ
のりんごの木が植えられた庭付きの家に住んでいた。
ノーラからドラウズには行けないし、フレッドとも暮らせないと
書かれた手紙を貰ってから8年の歳月が経っていた。
この手紙を読んだフレッドは最初の狭心症に襲われた。

昨晩も心臓に苦しめられたフレッド。
日曜日の朝だった。
玄関の呼び鈴が鳴ったかと思うと、ノーラだった。

フレッドは、「広い庭とは言えないんだけど、りんごの木が
あるんだ」と言ったが、「本当におれはこんな女と---肌は
もうすっかり土気色じゃないか。口ひげまで生えて。・・・」
と思っていた。ノーラはノーラで、フレッドの頭を見て、
禿げているのに気がついた。

ノーラはフレッドの子供を生んだのを知らせにきた
と言うのだった。息子の身体は普通だと言うのだ。

ノーラが去ると、住所や連絡法を聞いていなかったことに
気がつく。ノーラに追いつけば、一緒にロンドンまで行き、
息子に会えると思いついたフレッドは、急いでノーラのあとを
追うのだった。

フレッドに気付いた少年が、帽子を被ったフレッドの頭を
ぽんと叩いた。あっという間に、少年たちがドンドン現れ、
フレッドのあとをつけはじめた。「小人の足どりはどんどん
早くなり、彼は時計を取り出して眺めてはくすくす笑うのだった。
・・・子供たちの数は増えていき、・・・通行人も・・・小人を
眺めようと立ち止まった。どこかで教会の鐘が鳴るのが聞こえ、
まどろんでいた町が活気づいて・・・町は、・・・我慢しつづけて
いた笑い声を爆発させた。」

フレッドは駆け出していた。
群れをなしてフレッドと一緒に走る少年たち。
フレッドには自分の息子たちのように思えた。
通りすぎる自転車からフレッドに声援をおくる男。
女たちが玄関口でフレッドを指差し、大きな声で笑った。
町中の犬たちが吠えた。
フレッドを追いかける人だかりは数を増した。
「人々は大がかりなパフォーマンスか、サーカスの宣伝か
映画のロケでもやっていると思ったのだった。」

フレッドの視界に彼女の黒いドレスがあったときには、
フレッドの足はもつれ、耳鳴りは止まらなかった。
スカートの襞(ひだ)にしがみつき、微笑みながら見上げ、
言おうとしてとき、「驚いたように眉をつり上げて、ゆっくりと
舗道に崩れ落ちた。」

「ほっといてちょうだい」抑揚のない声で言うノーラ。
「私はなにも知らないんです。息子が数日前に死んだばかりなのよ」

シルヴィア・ジョンソン著、『世界を変えた野菜読本』には、
Himmel und Erde天と地といドイツ料理のことが書いてあった。
茹でたジャガイモ、林檎、ベーコンを混ぜて作る料理。
林檎が天に、ジャガイモが地に当たるのだろう。ベーコンは豚で、地上。
となれば、天地豚だ。しかし、人間が人間を食べるわけには行かないから、
世界の三大要素を食べるとしたら、この組み合わせになると解すことも
出来そうだ。

それにしても、この「じゃがいもエルフ」はこのドイツ料理を連想させてしまうのだ。
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-06 02:03 | 読書
『世界を変えた野菜読本 トマト、ジャガイモ、
トウモロコシ、トウガラシ』、シルヴィア・ジョンソン、
金原瑞人(かねはらみずひと)訳、昌文社、1999年。

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原書は、Tomatoes, Potatoes, Corn, and Beans
---How the Foods of the Americas changed
Eating around the World(ita.), 1997.

この本は以前に参考にした以下の本の後で出されている。

Henry Hobhouse、
Seeds of Change: Five Plants that Transformed
Mankind (ita.)
Papermac, 1992(1985).

ホブハウスの後で出されているが、幾つか興味深い
指摘がある。

(1)ジャガイモを食べるとハンセン氏病になると 
   恐れられていた。ごつごつした瘤(こぶ)だらけの
   形のせいで、ハンセン氏病の皮膚のただれと腫瘍を
   連想したためだ。
(2) ゆえに、法律によって、1600年初頭、フランスでは
   食用を禁じられていた。
(3) 違う理由、トマト(poome d'amour愛の林檎)*同様
   催淫(さいいん)効果があり、性欲を刺激するとされた。
   アイルランドで人口が増えたが、催淫効果だと確信する
   人たちもいた。
(4) フランスとプロシアの間の7年戦争のとき、捕虜に
   なった薬剤師アントワーヌ・パルマンティエが 
   じゃがいも栽培を推薦する学術論文を書き(1771)、受賞。
   1785年、バスケットにジャガイモを一杯にしてルイ16世に、
   ジャガイモの花でブーケを作り、マリー・アントワネットに
   贈った。ジャガイモ花のブーケは、フランス女性貴族の間で
   流行。パルマンティはルイ16世、マリー・アントワネット、
   貴族たちに20種類ものジャガイモ料理を披露した。
(5) ジャガイモの畑に日中は兵隊に見張りをさせ、夜に兵隊が
   帰ると、興味心一杯の人達がジャガイモを持ちかえって
   行った。
(6) ポテト・スープはパルマンティエ・ポタージュ。
(7) ウォルター・ローリー郷がジャガイモを英国へもたらしたと
  いう節もある。
(8) 1597年、ジョン・ジェラードが「ヴァージニアのジャガイモ
   について」を著わした。
(9) 「白いポテト」にとって暑すぎる国は、サツマイモ栽培。
(10)Himmel und Erde天と地とは、茹でたジャガイモ、林檎、
   ベーコンを混ぜて作るドイツ料理。


* トマトが愛の林檎(仏語),「黄金の林檎」pomodoro(伊語)
love apple(英語)と呼ばれていたのは、1)林檎はヨーロッパ
 では馴染みの深い作物 2)最初のトマトは黄色だった
 3)1600年代のイタリアでナスは「ムーア人の林檎」と
  呼ばれていた。フランス語でも同じ意味で、ナスは「ムーア人
  の林檎」と呼ばれていた。北アフリカのムーア人からナスが
  伝わった。4)ナスもトマトもナス科の植物。「ムーア人の
  林檎」が間違って、「黄金色の林檎」、「愛の林檎」と
  間違って言われたのかもしれない。つまり、ナスの名前が
  トマトを指すようになってしまったという考え。
  5)丸くて赤いトマトと、心臓のイメージが似ていることから
   催淫効果が連想されたのではないか、という見方もある。
  6)トマトもナスも同じナス科のべラドンナに近いので、
   ヴェラドンナに毒があるので、トマトにも毒があると考え
   られた。媚薬にもなる毒ということだろうか?

こうして見ると、更に他の本も読まないといけない、気がして
きました。
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-05 00:21 | 読書
『シャーロット・ブロンテ論』、中岡 洋 編著、
開文社出版、2001年。

『不思議の国のアリス』で林檎からジャガイモが出て
くるのをきっかけにして、じゃがいものメタファーと
林檎のメタファーについて見たのが先日。

じゃがいもについて調べようと、「じゃがいも」で検索。
最寄りの図書館から、借り出した本の一つが本書。
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じゃがいもを正面からテーマにしていたのが大田美和
(おおたみわ)駒沢女子大学助教授の論文「じゃがいも、
庭師、菓子、食事-『ヴィレット』における『幸福』の
『栽培』---」。

じゃがいもが「幸福」の「栽培」に関わるが、それだけに
終わらない、というのが大田美和助教授の考察である。
その前半の構成部にじゃがいもと林檎のメタファーが
採り入れられている。

(1)主人公ルーシーは、ベルギーのブリュッセルで勉強する
 英国人留学生。幸福を養えcultivate happinessとグレアムに
 言われると、「幸せとは、じゃがいもではない」と反論する。
 フランス語では、cultivateでなくcultureが栽培。
 養殖真珠cultured pearlsであり、cultivate とcultureないし
 growが芋蔓式に出てくる。
(2)「幸せとはじゃがいもではない」 ここで、じゃがいもは
 ブロンテの父パトリックがアイルランドからイギリスに来て、
 貧農な身分から英国国教会司祭にまでなったこと、
 じゃがいもはブロンテ家の常食だったこと、ブリュッセル
 でホームシックになったとき、召使のタビ-がじゃがいもを
 茹でる火を起こすのを思い出していること、視力が衰えた
 タビ-のためにじゃがいもの芽を取り除いてあげたこと、
 タビ-にエミリーとアンはじゃがいもの皮むきを言いつけ
 られたこと、などが背景となっている。
(3)ルーシーは異郷の地で、神経衰弱気味。
  里心をくすぐるじゃがいもだけでは幸福になれない。
   最初に幸福を養うことを提唱した男性はルーシーを
  おいて他の女性の元に行き、庭師として登場するのが
  ポール先生。ポールがワーズワースを知っていることは、
  設定として偶然ではないのだろう。同郷同食を示唆。
(4)ポールはルーシーの試験勉強を個人的にみてやる。
  個人教授を抜け出して、食べ物を取りにいくルーシー。
  二人は焼き林檎を分かち合う。

大田助教授は次のように言う。

りんごといえば当然アダムとイヴを連想するが、じゃがいもが
フランス語では「大地のりんご」(pomme de terre)であって、
その省略形pommeはりんごpommeと同じで、二つの単語が
しばしば混同されることに注意を払うべきであろう。
『ヴィレット』では、フランス語とは逆に、じゃがいもがりんごに
変わる。じゃがいものもつ日常性は保ったまま、より象徴性と
神話性の高いりんごへと、じゃがいもが変容するのである。


■ 付録

後半についてお知りになりたいでしょうか。
後半部は以下のようになっています。

(5)ポールによりルーシーは食べきれないほどの食べ物を
 force強制される。forceは「促成栽培する」という意味もあり、
 ポールはルーシーが公開試験のためにルーシーの知識を 
 促成栽培。
(6)最初に幸福の象徴として出されていた「天国のしぼまない花」
  と「黄金の果実」とは、前者はポールから贈られたすみれを
  ルーシーが押し花にしたものであり、後者は、「じゃがいもが
  変容したりんご、二人で味わったお菓子」。

大田助教授のこの論文の最後は以下。

結局、ルーシーは幸せを育て続ける喜びには恵まれず、
一人で生きるのだが、彼女は幸せについても彼女らしい、
一筋縄ではいかない、機知と皮肉に富んだ比喩を見出した
のである。幸せとはじゃがいもであって、じゃがいもではない
のであった。

これに対して、異論ないし反論も出せるでしょうが、恐らく
大田助教授の見方が作家シャーロット・ブロンテの時代を
反映したものなのかもしれません。
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-04 05:01 | 読書
Philosophers' Magazineのインタヴューに
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応えたものがWhat Philosophers Thinkとなった
ことは、先日の日記に書いた通りである。

レイ・モンクは『ラッセル伝』(上巻1996, 下巻2000)を出す前に

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ウィトゲンシュタインの伝記『ウィトゲンシュタイン---天才の責務』
を出した(1990)。

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最初の『ウィトゲンシュタイン---天才の責務』は好評だった。
ウィトゲンシュタイン支持者からも批判者からも賞賛された。
ウィトゲンシュタインを憎む人たちからは、モンクはウィトゲンシュタインが
いかにおぞましいかを書いてくれたことで感謝された。ウィトゲンシュタインを
愛する人たちからは、ウィトゲンシュタインがいかに苦行に耐えて
哲学したかをモンクが著わしたことで感謝された。

ところが、その後のラッセル伝の二冊、上巻と下巻に関しては酷評が
増え続けた。

この明暗は大きかった。

両哲学者の伝記とも人生と哲学とが、性格と哲学とが切り離せないもので
あることをモンクは明示したのだが、この明暗の差についてモンクは
考えるようになった。
ウィトゲンシュタインはオーストリア人であり、どんなことをしようとも、
「あのオカシイオーストリア人が・・・」ということで片付けることが出来る
のに、英国人のラッセルに対しては、義理の娘との近親相姦や孫娘
ルーシーに対して冷たかったりしたことなど、身内の者として余りにも
想定外だったからではないか、とモンクは考えた。

この身内の者としてラッセルの特定の行為が受け入れられない、
あるいは想像だに出来ないということ自体がそもそも論理的ではない、と
ラッセルも草葉の陰から言うかもしれない。

「論理的ではない」の背景にあるのは、次の逸話である。
すなわち、ウィトゲンシュタインがラッセルに
「(トラッテンバッハの人たちは)皆、邪です」と言ったとき、
ラッセルは「世の中には良い人も邪な人もおり、
全称命題で語るのはナンセンスだ」と弟子に応えた、というものだ。

この悪評の背後に潜む感慨だけでも大変興味深いものがあるが、
個々の哲学者たちの反応が更にオモシロイ!?例えば・・・

アンソニー・ゲーリング[ウィトゲンシュタインがウィーン学団に影響を
与えたのではなく、逆にウィーン学団がウィトゲンシュタインに影響を与えた
と提唱した哲学者]は、モンクはラッセルの伝記執筆に高額の前金を貰い、
そのチェックを銀行に預けているくせにラッセルを毛嫌いしていたと書評に
書いた。ゲーリングはモンクが最初からラッセルを滅茶苦茶に貶す伝記を
書くつもりでいたと責めたが、これは間違っている。既に出た眼を覆いたく
なるようなことは伝記を書こうと調べているうちに、発見したことだったからだ。

ちゃんとした人間でないと論理学者にはなれない、とウィトゲンシュタインは
ラッセルに言っていた。不評、悪評、酷評が出てきたのは、
哲学者は一般の人よりも自らを治することが出来ると考えられているから
ではないか、とモンクは思った。勿論、この想定ないし期待も外れなのだ。
何故なら、哲学者にとっても真摯に自らを見つめることは難しいからだ。


ラッセルが人間的に落ち度があったからといって、ラッセルが残した
数理論理学の仕事は尊敬に値する、とモンクは言う。
『プリンキピア』執筆のために10年を費やすというのはラッセルでなければ
出来なかったことだ、とモンクは考えるのである。

その通りなのだ!
モンクの『ラッセル伝』は、これまでの疑問に多いに応えてくれるものと
なっているのだ。

例えば、モンクの前に出されたCaroline Mooreheadの
Bertrand Russell: A Life(1991)で、3番目の妻ピーターことパトリシアは
ラッセルに首を締められたとあった。

何故?と思った。ムーアヘッドのインタヴューにピーターは応じなかった、とあった。
モンクの『ラッセル伝』の上下巻を読むと、すんなり理解できるのだ。

ラッセルは二番目の妻ドーラと離婚裁判を起こした。その時の弁護士の
友人の息子とペーターは結婚したかったのだという。
その望みが叶わなかったので、ラッセルと結婚した。

ところで、ジョンとケイトの家庭教師としてドーラが見つけてきたピーターだったが、
ドーラの自由恋愛からドーラは愛人の子供を、ペーターはラッセルの子供を
それぞれ同時に妊娠していたことがあった。ラッセルの妊娠しないでくれという
懇願を無視して。結局、その子供は生まれずに終わったのだが、
ラッセルの側から見れば、結婚してピーターの名誉を守ったのに、
米国で暮らしていた頃、ピーターはスペイン系の米国人と恋愛沙汰を
起こしていた。単にピーターがからかわれていただけだったが。

こうしたことを考えると、ラッセルが切れてしまい、ピーターの
首を締めるに及んだのも頷ける気がするのだ。
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-03 07:12 | 読書
贈り物というジャガイモのメタファーと共に、毒という
メタファーもあることをアイルランドの飢饉で確認してみたい。

参考にしたのは、この本。

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Henry Hobhouse、
Seeds of Change: Five Plants that Transformed Mankind
Papermac, 1992(1985).


■アイルランドのジャガイモ

ジャガイモが飢餓から多くの人を救うことは既に述べた。
ジャガイモのおかげで人口が爆発的に増えるという
現象も起きた。

英国のほうにジャガイモを南米から運んだのは、19世紀
歴史家ピンクPinkによれば、フランシス・ドレイクだという。
一年分の税金を積んだスペイン船を狙ったのだが、失敗。
金の変わりに見付けたのがジャガイモだったが、これは
予定していた略奪金より、価値があった。飢えから英国の
人々を救うことになったからだ。

しかし、その優れた贈り物としてあったジャガイモが
アイルランドでは飢餓をも招くものとなった。

アイルランドのジャガイモ畑の俗称は怠け床 lazybed。
この栽培法は現在もアンデス高地で行われているものと変わらない。
怠け床は平地でなくても大丈夫で、石などが地下にあってもジャガイモは
栽培可能。また、人間が水はけに気を遣わずに済むので、アンデスの
高地でもアイルランドの湿地にも適している。

■ 怠け床の経由

ジェイムズ1世を応援したアイルランドは、
クロンウェルによって、侵略されたが、怠け床を
アイルランドにもたらしたのもクロンウェルだった。

1760年~1840年の間にアイルランドの人口は150万人
から900万人になった。80年の間に600%もの増加。
1845-46年に最初の飢餓。1851年の国民調査では
食糧不足が挙げられている。


ジャガイモの病気には以下のものがあるという。

(1)菌がジャガイモの塊茎に現われると貯蔵中のジャガイモを枯らせて
   小さくさせ、木のようにしてしまい、食べられなくなる。1750年代に
   アイルランドのジャガイモを襲った。菌:fusarium caeruleum
(2) カーリング病、ないし、葉巻き病curl。これは、アリマキgreenflyが
    伝染させるウイルス病。1770年代に東アイルランドを襲った
   この伝染病は英国から到来。西側は風が吹いていたので無事だった。
(3) 緑に茂る葉と果実に広くつくカビにbotrytis cinerea、これは1795年に
   アイルランドのジャガイモを襲った。
(4) 黒脚病blackleg. 細菌による伝染し、葉が黄色くなり、茎と軸が黒く
   なり、引っ張ると茎と軸は塊茎から抜けてしまう。1833年に発生。
(5)葉枯れ病blight.もっとも致命的な病気をジャガイモにもたらす細菌
  Phytophthora infestansにより引き起こされる。米国で貯蔵されていた
  ジャガイモに遺伝子異変が起こったものが、1845年6月にワイト島に
  出ると、8月にアイルランドに、次に欧州各国にも出た*。 1920年代に 
  治療法が見つかるまで葉枯れ病は忘れたときに出ていた。


18世紀には、一度病気が発生した土地では栽培を見あわせること、
種にするジャガイモは菌やウイルスに侵されていないものを使うこと、
衛生を心がけることなどが知られていた。
しかし、19世紀のアイルランドの小作農たちには代わりになる土地も種に
なるジャガイモもなく、衛生観念も乏しかった。小作農たちの不在地主は
英国人が主だった。

また、英国の飢饉とアイルランドの飢饉と重なる時期があった。
蓄えを持たないアイルランド人はジャガイモを本土に輸出することで
糊口をすすろうとした。その結果、食糧を失うことになり、飢餓を
招かざるをえなかった。何とか生き残るにはケネディーの祖先の
ように移住するか、英国人と思しき人の家に行き、物乞いをするか・・・。

* 葉枯れ病には、ウイルスAとウイルスBの2つのタイプがあると
木下信一さんが指摘されていた。症状でどちらか分かるそうだ。
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# by ars_marloowe_june | 2007-02-02 07:10 | 読書

じゃがいもが枕?!

先日から話題にしていたじゃがいもpomme de terre, 略してpomme.

ウィキペディアでじゃがいもの歴史を調べてみたら、前述したように、
フランス語のものが一番充実していた。
フランス語のウィキペディアのじゃがいもの項目は、じゃがいも関連の本との
照合も出来るようだった。すなわち、pomme de terreでフランスのアマゾンを
検索すると、代表的な本が一覧できる。
その後で、フランス語のグーグルでpomme de terreを検索すると、
ウィキペディアの一部と本が出てくる仕組み。
著者ないし出版社が、逆にウィキペディアに書き込んでいるのかもしれない。

フランスのアマゾンにはじゃがいもだけでなく、林檎の本も一緒に出てきた。

例えば、絶版だが、メタファーを知るのに格好と思われるのはこの本

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La Pomme : Histoire, symbolique, botanique, diététique, cuisine (Relié)
de Henry Wasserman, Michel Pastoureau, Jean-Marie Pelt (Préface)


一昨日は、1月16日に注文していた本が届いた。

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What Phiosophers Think, Julian Baggini & Jeremy Stangroom (ed.),
Continuum, 2003.

これはPhilosophers' Magazinesに載った
著名知識人たちとのインタヴューを本にしたもの。

りんご続きだった。
MarlooweとJuneもりんごのおやつ。
先週のバナナの残りが沢山あったので、バナナが主。
それに、すり林檎、茹でたサツマイモ、人参、ブロッコリとヨーグルト。
野菜は色付け程度。

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写真を撮っていると、Marlooweはハウスでいつものように待機していたが、
Juneは待ちきれなくなり、何度も覗き込んでいた。

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# by ars_marloowe_june | 2007-02-01 01:34 | Marloowe & June

昨日の夢

昨日は奇妙な夢を見た。

Juneが得体の知れないものを食べているのだ。


この夢を見る前に、まがい亀のことを考えていた。
hiroさんがテニエルの挿絵は怖いと感じたと打ち明けて
くださったので、私もそういう感じを持てるかどうかと
考えていたのだった。

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アリス本には、ユーモアとして読み流してはいるが、
恐怖の構造が背後に控えている。
例えば、偽海亀だ。

偽海亀、Mock Turtleは、スープ。
タートル・スープが高価につくので、安くあげようと
牛肉で代用させるもの。
ヴィクトリア時代の料理指南本、ビートン夫人のレシピにも
載っている。

キャロルによって、スープの名前から、亀の名前に変換されている。
スープが登場人物になったのだ。

偽海亀Mock Turtleの先生はTortoise---taught us---だ。
この先生に教えてもらうlesson(教科)はlessen(減る)ものと
され、いつかは学ぶことが終わることを示唆しているようだが、
教科自体がいつかは薄れてしまう、形骸化することをも示唆
されているのかもしれない。形骸化することは、むしろ歓迎される
べきものとして出されているのかもしれない。なぜなら、教科
教えるということは進むべき基本を示すことであり、最初の
路線を有無を言わさず取るようにさせるものだからだ。

そこで、一応は、従順にTortoise先生の教えに従う偽海亀と
いうことになる。でも、本当は嫌で嫌で堪らないのだ。
涙が出ちゃう~~のだ。

アリスは偽海亀の身の上話を聞き、同情してしまう。
自分のことでもあるからだ。

Ronald Reicherzはアリス本に見られるさかしまの世界の伝統を
指摘している。これは、中島教授もされていた。
偽海亀はさかしまの世界の住人でもあるのではないか。

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The Making of the Alice Books: Lewis Carroll's Uses of Earlier
Children's Literature
, McGill-Queen's UP, 1997.

さかしまの世界とは・・・、
一つには下克上による転倒を指す。
また一つには、現在の世界と反対にある世界antipolesを指す。
『不思議の国のアリス』はウサギ穴に落ちた着地したのはDown Under
ニュージーランドかオーストラリア。落ち葉の上にアリスは落ちている。
季節は秋ないし冬。

古代からこのさかしまの世界はあり、対蹠地では逆立ちをして歩いていたり、
眼が幾つもある人間がいたり、お腹に眼がある人がいたり、みかんと林檎の
掛け合わせた果物があったりする、ヴァーチャルな世界だ。

アリスが元いた世界ではMock Turtleのスープだが、対蹠地では偽海亀。

偽海亀のことを考えていたのだった。
Juneが異物をドンドン食べている夢を見た。
やりたくないことをやらされたりするが、食べたくもないのに
食べさせられることに象徴されているのかもしれない。

Juneは一生懸命に食べていたが、好きでそうしていたのではなく、
片付ける、ドンドン片付けるためにそうしていると感じた私。
Juneは自分だと思いながら、夢の中のJuneを見つめていた。
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# by ars_marloowe_june | 2007-01-31 00:04 | 読書
次に、ジャガイモのことをフランス語で(la) pomme de terreと呼ぶことも
安井教授は指摘。pomme de terre 字義通りには、「地中の林檎」。
また、pommeだけでpomme de terreを指すこともある、と辞書にはある。

ここで、思い出されたのは、そもそもの林檎の語源をAlexander Pope
翻訳のIlliadにあるとしているものがあったと聞いたことが
あったということだ。
また、『ダ・ヴィンチ・コード』では、暗号の解明にニュートンという記号が
絡んできて、アレキサンダー・ポープがニュートンの墓碑銘で以下の2行詩*を
歌っていることが言及されている。
ニュ-トン、万有引力、りんごという連想がその下に置かれているのだ。

* ダン・ブラウンが言っていたのは、恐らく以下の2行。

  "Nature and nature's laws lay hid in night;
   God said 'Let Newton be' and all was light."

     自然と自然法則とは夜の闇に潜んでいたが、
     「ニュートンよ、誕生せよ」と神が言うと、光が闇を呑み込んだ。

アレキサンダー・ポープが「林檎」を出したことが、ジャガイモをpomme de terreと
呼ぶことになったというのは、フランス語を勉強している方のサイトで以前に見かけた。
ポープはフランス語も出来たので、cartoufleからpomme de terreに移行するのに
寄与したと理解したのだが、その出典sourceはどこなのか。これを調べるのが
今後の課題である。

現在、出来ることは、何か?
一応、林檎のメタファーを、贈り物として素晴らしいもの、災いにも
なりうるものとして、このメタファーがジャガイモにも見られるかどうか、
共通に使えるかどうかを調べてみること、また、ジャガイモの歴史から
pomme de terreのメタファーを探ることだ。

ポープの林檎は3人の美女のうちでもっとも美しい者に与えられるもの。
パリスがヘレンを選んだことで、ペロポネソス戦争が起きたとも言える。
そこで、贈り物が災いの元凶になったとも考えられるのだ。
贈り物/ギフト/毒、災いの元ということだ。

典型的に林檎のメタファーとジャガイモのメタファーが異なるのは、
前者の持つエロティックな要素だ。
例えば、sac de pomme de terre、字義通りにはジャガイモの袋だが、
イディオムとしては太った醜い女性の意味。
また、nez en pomme de terre、ジャガイモ鼻とは団子鼻。

贈り物,ギフト、毒、災いはジャガイモのメタファーにも当てはまりそうだ。
ジャガイモの歴史を紐解くと自ずとこれらのことが示されているからだ。


■ ジャガイモの歴史

ネットでさらってみた。
Wikipediaではフランス語のものが一番充実していた。
何かと問題のあるデジタル事典だが、一応、応急的な利用を目指して
みよう。

原産地はペルーアンデス。元々はdadと呼ばれていた。紀元前から
ほど1000年ほど栽培されていた。スペインに最初に紹介された。
セヴリアの修道僧たちにより栽培されたのが1573年。
この頃はdadダードと呼ばれていた。
その後の200年間にスペインではpatataパタータと呼ばれて広まってゆき、
イタリアではtaratpifffli小トリュフ、アイルランドpotato。
ドイツとフランスにも浸透していった。フランスには1540年に紹介された。

ジャガイモだが、最初からフランスでpomme de terreと呼ばれて
いたのではないという。1600年にフランス人、オリヴィエ・セーレによって
cartoufleとして言及されている。Kartoffelというドイツ語をすぐに連想する
のだが、フランスでジャガイモが栽培されるようになった経緯とも無関係
ではないらしい。フランスとプロシアの間で戦われた7年戦争(1756-1763)
のとき、捕虜になったフランス人アントワーヌ・パルマンティエによって
ドイツからフランスにジャガイモがもたらされ、1757年にブルターニュの
レンヌで栽培された。しかし、これがフランスないし後でフランスと見なされる
ところでお目見えした一番最初のジャガイモというわけではない。
記録によれば、パルマンティエより100年も前にジャンとガスパール・バウイ兄弟が
モンベリアールの「大庭園」”Grandes-Jardin”でジャガイモを栽培していた。
1793年の大飢饉の際、ここで栽培されたジャガイモのおかげで
モンベリアール伯爵領の人々は餓死を免れた。

■ ジャガイモは「貧しい人々のパン」---贈り物としてのpomme de terre---

飢餓を救うジャガイモは栽培を奨励されることとなった。煮てよし、揚げてよし・・・。
「フランスはいつか貧しい人々のパンを発明してくれたジャガイモさんに感謝するだろう」*。
こう言ったのは、ルイ16世。

* "La France vous remerciera un jour d(avoir invente' le pain des pauvre."

日本には、1600年ごろにオランダ船によりジャカルタ港より運ばれ、
ジャカルタがジャガイモの名前となって残っている。
江戸時代には、矢張り、飢饉の際にジャガイモで救われたという記録がいくつか
残っており、「お助けイモ」と呼ばれたとある。
江戸時代の代官のなかにもジャガイモの栽培を促したものもいた。

じゃがいもは滋養も高く、肥沃でない土地でも栽培できたので、飢えから
の救いをもたらした。素晴らしい贈り物だった。しかし、それだけではなかった。
飢餓を救うものから災いをもたらすものに化すこともあったのだった。

  (=続きます=)
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# by ars_marloowe_june | 2007-01-30 00:50